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Jul 03, 2009

シリーズ・ベナンの歴史(4) ベナン北部の諸王国・後編

カンディ小王国

 カンディ小王国は、ナイジェリアのプール人やデンディ人らによって、たびたび攻撃されていた。しかし、ニッキ王国国王の防衛により、攻撃から逃れられた。

 ニッキ王国国王とカンディの首長から差し出された女性との間に生まれた息子は、ササ・バク(Sasa Baku)であった。ササ・バクは遠征先での戦いで勝利し、その後ニッキに現れることなく、母の故郷のカンディに戻り、その地で初代の王に即位した。カンディ王国と異なり、カンディ小王国は戦いを多くは行なわず、ニッキ王国に従属した。

パラク王国

 パラクということばは、デンディ語で「全ての地域」を意味する。初期のパラクの街は、バリバ人に起源を発する人々が暮らしていた。そこに、ナイジェリアのヨルバ人やハウサ人、ニジェールのデンディ人やプール人らが流入してきた。その多くは、イスラム教徒であった。パラクの人々は、遠くの国々からやってきた人達と商売をしていた。

 パラク王国初代の王は、コブル・アパキ(Kobourou Akpaki)といい、ニッキ出身の王子と、サベ出身のヨルバ人女性との間に生まれた。コプル・アパキはニッキ王国の王宮で育ったのだが、母親がバリバ人でないということで兄弟からいじめられ、サベに戻った。パラクにたどり着いた際に、パラクの人々はコブル・アパキを王に任命し、ニッキの王もこれを認め、ニッキ王国に服従することはなかった。こうして、コブル・アパキはパラク王国の王に即位した。

 パラク王国は、商業によって豊かになった。だが、1894年にフランスが進出して来た際、フランスの軍事力を恐れ、他のバリバ人の国と違い、フランスと友好関係を結んだ。

ベナン北部・バリバ人の昔の暮らし

 ヨーロッパ人が進出する以前、ボルグ地方(現在のボルグ県を含むベナン北部)には、バリバ人、プール人、そのほかの異民族や奴隷たちなど様々な人が暮らしていた。多くの家屋は、土壁で藁葺き屋根の家屋であり、とげのはえた生垣で家を囲んでいた。大きな家は、戦争をする王族、貴族、軍人達の家であった。

 農民は、ヤマイモ、アワ、ピーナッツ、キャッサバなどを畑で育て、それらを食べていた。職人らも多数生活しており、農耕道具や武器をつくっていた。また、イスラム教のプール人は、彼らとは少し離れたところで牧畜生活を営んでおり、乳製品を食べていた。ナイジェリアのハウサ人、ガーナのアシャンティ人などの外国人商人も住み着き、織物、ブレスレット、馬などを売っていた。このように多くの農民、職人、商人らがいるなか、奴隷という身分の人々もいた。奴隷達は、畑できつい仕事に従事し、君主の家を修理するなどしていた。奴隷は売られたり、家畜と交換されたりすることもあった。

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シリーズ・ベナンの歴史(3) ベナン北部の諸王国・前編

地図

 ベナン北部の歴史は、ベナン南部とは少し異なる。これは、ベナンの南部はアボメー王国の領土であったが、北部はアボメー王国とは違った王国が支配していた地域であったことが背景としてある。また、イスラム教の影響が南部より強く、ナイジェリアやニジェールなどの交流も盛んであったことも考えられる。

ニッキ王国

 西暦1500年ごろ、ナイジェリアからベナンの北部のニッキウヌにバリバ人の騎馬民族がやってきた。もともとニッキウヌには先住民族がいたため、先住民族と騎馬民族との間で戦いが起こり、後に和解した。騎馬民族の首長であるスノン・セロ(Sounon Séro)の子供たちは、新たな土地と獲物を求めて遠くへ進出していった。子供たちのうちの一人、セロ・シキア(Séro Sykia)は、ニッキウヌに王国の都を創設した。

 ニッキ王国初代大王のシメ・ドブヂャ(Simé Doboudya)の子供らは、大王から権力を受け継いだのだが、人数が多く、お互いに戦いを繰り返した。中には、権力を拒み、よそにクアンデ王国やカンディ王国などの王国をつくりに行った者もいた。

 西暦1830年ごろ、現在のナイジェリアのバリバ人とヨルバ人が、イスラム教徒のプール人によって攻撃されていた。ナイジェリア、オヨのヨルバ人の王様は、当時のニッキ王国の王様、セロ・ペラ(Séro Kpéra)に援軍を要請した。セロ・ペラは勇敢で攻撃的な王で、近隣の小さな諸王国を併合していた。セロ・ペラはバリバ人兵士の指揮を執っていたのだが、バリバ人とヨルバ人が対立し、1831年のイロリンの戦いで、プール人に敗北した。セロ・ペラは殺され、ニッキ王国は滅亡した。

クアンデ王国

 ニッキ王国の王子であるチャビ・ガバ(Chabi Gaba)は、酒飲みで乱暴であったため、ニッキ王国から追放された。チャビ・ガバはナティティング南部へ逃れ、やがてこの地域の王となった。チャビ・ガバの息子のウォル・ワリ(Worou Wari)は、18世紀にクアンデに定住し、初代の王となった。ウォル・ワリはボルグ西部地域の諸国を支配するほど強く、水牛を意味する「バンガナ」という名前をつけた。ウォル・ワリの死後、弟のババ・タンタメ(Baba Tantamé)が王に即位し、ジュグーやナティティングにも勢力を広げた。さらに、ババ・タンタメの長男のセロ・ベル(Séro Gbérou)が即位すると、南部のモノ地方まで戦争し、王国を拡大していった。このように、クアンデのバリバ人はベナン北西部を支配する、強力な人々であった。しかし、フランス人がクアンデの街を占領したとき、当時即位していたウォル・ワリ2世は、フランスによって王位を剥奪されてしまい、ウォル・ワリ2世は服毒自殺した。

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Jun 28, 2009

ワールドカップ予選 ベナンの中間結果

 ワールドカップ南アフリカ大会アフリカ地区最終予選で、6月はベナンの属するグループDでは各国2試合が行なわれた。

 6月7日には、コトヌーでベナン対スーダン戦が行なわれた。前半22分、ベナンのオモトヨッシ(Razak OMOTOYOSSI)が先制ゴールを決め、この1点をベナンが試合終了まで守りきり、1-0でベナンが勝利した。

 6月21日には、バマコでマリ対ベナン戦が行なわれた。前半15分、ベナンのチョモゴ(TCHOMOGO Seidath)が先制ゴールを決めるが、後半29分、マリのメガ(MAIGA Modibo)が同点ゴールを決め、前半が終了。後半は終盤まで得点が入らなかったが、後半31分、マリのジャロ(DIALLO Mamadou)が勝ち越しのゴールを決め、さらに後半39分、カヌテ(KANOUTE Frederic)がダメ押しの3点目のゴールを決めた。その後ベナンの反撃は無く、3-1でマリが勝利した。

 ベナンはここまで3試合を終え、1勝2敗で勝ち点は3。グループ内順位は3位で、勝ち点9の首位ガーナとの勝ち点の差は6点ある。この時点でベナンの自力でのワールドカップ出場は無くなり、残り3試合全てベナンが勝っても、ガーナの成績次第でワールドカップに出場できるかどうかが決まることになる。

 残り3試合は、9月、10月、11月に1試合ずつ行なわれる。

<ワールドカップ南アフリカ大会 アフリカ地区最終予選 グループD>(6月21日時点)

国名 試合数 勝ち点
ガーナ 3 3 0 0 9
マリ 3 1 1 1 4
ベナン 3 1 0 2 3
スーダン 3 0 1 2 1

※グループ内1位のチームがワールドカップに出場。

参考情報

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