<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
<title>アフリカニュース - コラム - ゾマホン・ドットコム</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/" />
<link rel="self" type="application/atom+xml" href="atom.xml" />
<id>tag:www.zomahoun.com,2010-02-01:/ife/columns/africanews//45</id>
<updated>2010-05-27T06:34:40Z</updated>
<subtitle>マスコミではあまり取り上げられないアフリカ諸国のニュースを紹介。</subtitle>
<entry>
<title>スワヒリ文化の地を訪ねて　ザンジバル島訪問</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/report/001059.html" />
<id>tag:www.zomahoun.com,2010:/ife/columns/africanews//45.1059</id>
<published>2010-05-27T06:22:51Z</published>
<updated>2010-05-27T06:34:40Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="Report" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	スワヒリ文化・・・世界史の教科書でも取り上げられることのある、数少ないアフリカに関する世界史の事項の一つである。「スワヒリ」とは、「海岸、岸辺」を意味するアラビア語の単語「サーヒル」が変化したものである。そして、スワヒリ文化のスワヒリが意味するところとは、ソマリア南部からケニア、タンザニア、モザンビーク北部までのアフリカ東部の海岸を指すのである。この地域には、アフリカ固有の文化とアラブ・イスラム文化が混合した独特の文化が存在する。</p>
<p>
	<img alt="ザンジバル島ストーンタウンの街並み" class="imgright" height="187" src="/ife/columns/africanews/assets_c/2010/05/P1030499-thumb-250x187-1695.jpg" width="250" />これらの地域は、8世紀ごろに始まったとされるインド洋貿易で栄えることになった。当初は東アフリカ沿岸部の諸都市と、アラビア半島との交流といった小規模のものであった。後に東アフリカ沿岸部の諸都市では、内陸部との交易が始められた。象牙や金などのアフリカ内陸部の産品が、スワヒリ沿岸諸都市を経由し、アラビア半島にとどまらず、ペルシャ、インド、スリランカ、中国等とも貿易が行われた。こういった地域からの産品もまた、アフリカにもたらされたのである。</p>
<p>
	こうしたインド洋を拠点に広がった貿易で栄えた場所の一つが、ザンジバル島である。ザンジバル島は、タンザニアの東方40kmの沖合に浮かぶ島で、インド洋貿易が行われていたころは、拠点港の一つとして大きな役割を担っていた。この島は15世紀末からはポルトガル、16世紀からのアラブ（オマーン王国）、19世紀以降のイギリスというように、多くの国の支配を受けてきた。そのため、特に島内のストーンタウンというエリアでは、アフリカ、アラブ、ヨーロッパのそれぞれの様式が混在した建築を垣間見ることができる。このような独特の街並み、および景観は、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。</p>
]]>
<![CDATA[<p>
	<img alt="アングリカン教会" class="imgleft" height="187" src="/ife/columns/africanews/assets_c/2010/05/P1030505-thumb-250x187-1697.jpg" width="250" />しかし、この島にも負の歴史があったことを語らねばならない。一つは、奴隷貿易である。奴隷貿易というと、ヨーロッパ人による大西洋で行われた三角貿易も挙げられるが、ザンジバルでは、アラブ人による奴隷貿易が行われていた。ザンジバル島内にあるアングリカン教会では、奴隷貿易に関する展示施設があり、無料のガイドが英語で案内、解説してくれる。奴隷貿易で使われた鎖、各種資料のほか、奴隷として売られるアフリカ人が3日間閉じ込められていた地下室が2部屋残されていた。小さな窓があるだけのこの部屋は、ものすごい湿気があるため、数秒じっとしているだけでも汗が噴き出すような環境である。長くいれば、体調を崩しかねないほどジメジメしている。こういった過酷な環境でも病気にならない人間は体力があるとされ、高値で奴隷として取引されたのである。ベナンのウィダにも、奴隷にするアフリカ人を閉じ込めた窓のない施設があったが、現存はしていない。おそらく、ベナンでも似たような状況の部屋に閉じ込められていたのだろう。</p>
<p>
	<img alt="元ジャバニーズバー（元からゆきさんの家）" class="imgright" height="187" src="/ife/columns/africanews/assets_c/2010/05/P1030528-thumb-250x187-1699.jpg" width="250" />もう一つの負の歴史は、ジャパニーズバー、別名からゆきさんの家あったことである。まだ公娼制度が存在した頃、日本から売春のために売られた女性ら数十名がザンジバル島にたどり着き、ここで生活していたのである。現在でも彼女らの家が残されているが、現在は現地の人が住んでおり、建物の外観のみしかうかがうことができない。貧富の差が非常に大きかった戦前の日本では、不幸にもこのような境遇にあった女性がいたのである。</p>
<p>
	ザンジバル島は、特にヨーロッパ人にとって、ビーチリゾートとしても有名であり、7月、8月には多くの観光客が訪れる。そうした華やかとも思えるザンジバル島だが、一方で、奴隷貿易やジャパニーズバーなどといった負の側面も混在しているのである。</p>
<p>
	ザンジバル島の町並みは立派な歴史遺産であり、また海もきれいでリゾートとしても非常によい場所である。こういう点に限らず、ザンジバルで起こった負の歴史についても、もう少し着目すべきものがあるのではないだろうか。</p>
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ・ベナンの歴史（13）民主主義の時代：1990～1991年</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/history/001035.html" />
<id>tag:www.zomahoun.com,2010:/ife/columns/africanews//45.1035</id>
<published>2010-04-08T08:16:18Z</published>
<updated>2010-04-08T08:24:48Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="History" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<h3>
	国民会議</h3>
<p>
	1990年2月19日から28日、コトヌーで国民会議が開かれた。この国民会議は、基本的な自由と人権を保障する憲法をつくるものであった。国内、海外から524人のベナン人が集まった。コトヌーの司教であるイシドール・スザ（Isidore de Souza）閣下は、満場一致で国民会議の議長に選ばれた。2月25日、ケレク大統領が同意し、民主的な新しい政治体制が、平和的な方法で生み出された。2月27日、ニセフォール・ソグロ（Nic&eacute;phore <em>Soglo</em>）氏が、国民会議で首相に選ばれた。3月1日、ベナン人民共和国はベナン共和国になり、1977年の憲法は廃止された。ソグロ首相が任命され、12ヶ月間の移行期間を制定した。ケレク大統領は大統領からは退いたが、軍の最高司令官として残った。</p>
<p>
	移行期間は、国民会議によって決められた任務をやり遂げることが求められた。その任務とは、仕事や経済活動の再開、国の権限の回復、公共の場における生活マナーの向上、選挙の準備といった最も重要な諸問題を解決することであった。</p>
<p>
	新憲法はベナン人による国民投票にゆだねられ、1990年12月2日、大多数の賛成で採択された。</p>
]]>
<![CDATA[<h3>
	新憲法の下での国家体制</h3>
<p>
	新憲法は、国会議員らを自由に選ぶことができる民主的なものとなった。また、5年ごとに大統領が選出されることになった。1991年2月17日に国会議員の選挙が行われ、3月24日には大統領選挙も行われた。ケレク大統領と首相に選出されたニセフォレ・ソグロ氏との激しい選挙戦の末、1991年3月24日、ソグロ氏が最多票（67.73％）を獲得し、大統領に選出された。1991年4月1日から新体制が敷かれた。</p>
<p>
	移行政府期以来、自由は取り戻された。新聞の出版も自由になり、数多くの新聞が出版された。国民は組織や政党を自由につくることができるようになった。また、国外から戻ったビジネスマンらも、経済活動を再び始めた。さらに、エコバンク（Eco Bank）、バンクオブアフリカ（Bank of Africa）などの新しい銀行も開業した。経済成長率も、1990年は0.9％だったが、1991年には3％になった。</p>
<p>
	しかし、多くの問題も残されていた。国際通貨基金の構造調整計画によって要求された、企業の人員削減、公務員の放出、私企業に対する納税額の増加と付加価値税の導入が行われた。こうしたことが国民の不安を生み、学生、労働者、商人らの不満を募らせるといった問題も引き起こした。</p>
<p>
	その後、1996年、2001年の選挙では、ケレクが選挙で大統領に選ばれた。2006年には西アフリカ開発銀行総裁を務めたボニ・ヤイ（Boni <em>Yayi</em>）氏が大統領に就任した。1991年以降、全ての選挙で大きな暴動やクーデターで国家元首が変わることのない、安定した政治状況が続いている。</p>
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>ブリュッセル航空コトヌーに就航　7月6日から</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/news/001031.html" />
<id>tag:www.zomahoun.com,2010:/ife/columns/africanews//45.1031</id>
<published>2010-03-31T13:15:47Z</published>
<updated>2010-03-31T13:16:54Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="News" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	ベルギーの航空会社「ブリュッセル航空」は、7月6日から、ベルギーの首都ブリュッセルと、ベナン最大都市コトヌーとの週2往復の定期便を就航させ る。現在、ヨーロッパから直接空路でベナンへ行く場合は、パリ発のエールフランス便しかないため、今回の新規就航で、ベナンへの空路の利便性が少し高まる ものと思われる。運航ダイヤは、ブリュッセルを火曜日と土曜日の14:05に出発し、19:35（土曜は22:30）にコトヌーに到着する。コトヌー発の 場合、火曜日と土曜日の20:50にコトヌーを出発し、翌日7:15にブリュッセルに到着する。なお、土曜日に限り、コトヌー発23:45、ブリュッセル 着7:15の便もある。</p>
<p>
	航空料金はそれほど安いとは言えないが、片道利用、長期滞在での利用では、比較的安い運賃設定となっている。また、 ブリュッセル航空は「SN早割アフリカ」、「アフリカパス」の2種類の割引航空券もある。7月からの就航路線が使えるかどうかは現在不明だが、7月以降使 えるようになれば、こういった割引航空券を使うのも一考である。予約、発券は東京の日本地区総代理店で行えるほか、インターネットでもクレジットカード利 用で予約が可能である。</p>
<p>
	なお、ブリュッセル航空は、7月5日からガーナのアクラとブルキナファソのワガドゥーグーに、7月9日にもトーゴのロメに定期路線を就航させる。エールフランスの独占に近い状態だった欧州―西アフリカ諸国間の空路が、7月以降大きく変わり始める。</p>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>ベナンに無償資金協力</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/news/001029.html" />
<id>tag:www.zomahoun.com,2010:/ife/columns/africanews//45.1029</id>
<published>2010-03-31T13:11:17Z</published>
<updated>2010-03-31T13:12:30Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="News" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	3月16日、コトヌーで「食糧援助」および「気候変動による自然災害対処能力向上計画」の2件の無償資金協力に関する書簡の交換が行われた。日本側 は番場正弘駐ベナン大使が、ベナン側はジャン・マリ・エウズ外務・アフリカ統合・フランス語圏・在外ベナン人大臣が出席した。供与額は、2件合わせて12億2千万円である。</p>
<p>
	昨年起きた洪水で、住民2000世帯以上が避難するなど、人的な被害と、食糧不足も報告されている。今回の「食糧援助」 および「気候変動による自然災害対処能力向上計画」は、食糧不足に対応するコメの調達に必要な資金を供与するものと、安全な飲料水確保に必要な機材や設 備、および河川の護岸整備など自然災害へ対処する能力を向上させることを目的としたものである。</p>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ・ベナンの歴史（12）ケレク政権の時代：1972～1990年</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/history/001025.html" />
<id>tag:www.zomahoun.com,2010:/ife/columns/africanews//45.1025</id>
<published>2010-03-23T06:04:14Z</published>
<updated>2010-03-23T06:09:36Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="History" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<h3>
	社会主義の導入と国名の変更へ</h3>
<p>
	1972年10月26日、軍隊が権力を掌握し、議会を廃止した。少佐のマティウー・ケレク（Matheieu <em>Kerekou</em>）は、革命軍政府（GM.R.; Gouvernement Militaire R&eacute;volutionnaire）という新政府の代表をつとめた。11月30日、ケレクはダオメー国民に「国家建設の施政方針演説」を発表した。</p>
<p>
	新政権は変革および政治、社会、文化、そして人々の経済、特に労働者、職人、兵士の軍団や農民達の生活において、より多くの公平さをもたらしたかったからである。ケレクは、帝国主義や殖民主義、いわゆる外国による支配を取り消した。</p>
<p>
	1973年、革命国民会議は、地方の革命委員会と、革命防衛委員会を設置した。思想的かつ愛国的な集会は、義務になった。1974年、改革が村の昔のリーダーらにも広がり、村落や都市の地方自治体を運営する市長や代表らを選出させた。1974年11月30日、アボメーで、国を発展させるため、政権の運営と社会主義の本質が吹き込まれているマルクス＝レーニン主義を採用した。1975年11月30日、ダオメーの名前は変わり、ベナン人民共和国となった。緑、黄、赤の旗に変わって、左上に赤い星が置かれた緑地の国旗に取り替えられた。それ以後の祭日は11月30日になった。革命軍政府は、ソ連、キューバ、北朝鮮などの社会主義国に歩み寄り、セク・トゥーレのギニアをモデルにした。革命軍政府の党が発行する新聞、ラジオでは、「打倒帝国主義」といったスローガンを用い、また絶えず革命の歌を繰り返し流すことで、軍人らを奮い立たせた。</p>
<p>
	大企業や銀行、保険会社は国営化された。1975年10月には、教育改革が行なわれ、革命主義的な若い先生の育成や、マルクス＝レーニン主義の教育も含まれていた。</p>
<p>
	1975年6月21日、当時の内務大臣、ミッシェル・アイペ（Michel <em>Aikpe</em>）が排除されたため、ダオメー労働組合、学生、教員らがストライキを起こした。政府は力でストライキを食い止めた。労働者らは、「反政府的」であると表明を出し、政府に反対する人達は刑務所に投獄された。ある者は逃げ出し、国外に亡命した。</p>
]]>
<![CDATA[<h3>
	新憲法の制定</h3>
<p>
	1977年8月26日、革命国民会議は基本法、すなわち憲法と国の最初のプランを採用した。1979年11月13日、初のベナン人民革命党国民会議がひらかれ、ケレクを大統領唯一の候補者として任命した。1979年11月20日、336人の議員は、革命国民会議（A.N.R.; l&rsquo;Assembl&eacute;e National R&eacute;volutionnair）を開くために選出された。アジョ・ボコ・イグナス（<em>Adjo Boco</em> Ignace）が初代ANR代表に選ばれた。</p>
<p>
	ベナン労働組合国民連合（UNSTB; L&rsquo;Union National des Syndicat des Travailleurs du Benin）は、ベナン人民革命党の大多数の構成員からなる組織となった。総長であるロマン・ヴィロン・ゲゾが革命国民会議の代表となった。</p>
<p>
	1984年3月6日、基本法が発効された。この法律は、議員数を196人に戻し、5年ごとに大統領を選ぶものである。</p>
<p>
	1978年から1985年までは政治が安定していた。また、経済も好調で、国民生産は毎年6％、消費は2％増大した。外国資本の出資も許され、国家予算はバランスが取れたものだった。しかし、1986年から世界的な経済危機と財政の悪化、公金の横領などに直面した。国民、学生、そして労働組合運動は反発した。</p>
<h3>
	社会主義政権の崩壊</h3>
<p>
	革命軍事政権は独裁的になった。マルクス＝レーニン主義に国が順応できておらず、政権は神の存在を否定し、民主主義もないがしろにされた。政府に反対するものは、逮捕されたり拷問にかけられたりもした。イデオロギー的な集団と軍は、市民に嫌がらせや迫害を行なった。人々は皆、議論することなく賛同し、強制の下で政権を褒め称えなければならなかった。新しい学校は、就学した若者の人数を増加させたが、仕事の無い卒業生を増大させた。</p>
<p>
	経済は破綻した。管理不十分だった国営会社や国営銀行も破綻した。資金が、外国へ流れていった。政府は一部の国営会社を民営会社に譲ったり、清算したりした。公務員47,000人の昇進が止り、給与と証券は支払われなかった。政府は、フランスに援助を必要とした。</p>
<p>
	モラルのある生活が悪化していった。国民のひんしゅくを買うような横領を行なうなどの不正行為も行なわれていた。1988年から、国民は貧困と飢餓に直面した。ベナンの司教達は、収賄、公務員の横領、プロ意識の欠如といった腐敗した政権を告発した。新しい新聞が新たに発行され、大衆の意見を反映させた。1989年4月、教師、学生、労働者らが無期限ストライキを始めた。このストライキは数ヶ月続き、政権を麻痺させた。</p>
<p>
	1989年11月29日、ケレク大統領は、新しい国の政治的方針の決定を行なうため、次の民主化と国民和解のための国民会議を行なうこと告知した。12月7日、全ての懇願者らが一堂に集まり、ケレク大統領が基本法、政党組織、司法権改革を停止させ、マルクス＝レーニン主義を放棄した。12月22日には、国民会議準備委員会が設置された。</p>
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ・ベナンの歴史（11）独立直後の時代―頻発したクーデター：1960～1972年</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/history/000951.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2010:/ife/columns/africanews//45.951</id>
<published>2010-02-14T02:31:11Z</published>
<updated>2010-02-20T02:32:55Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="History" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	1960年12月11日に最初の選挙が行なわれた。しかし、独立直後のダオメーはまだ国としては弱い部分もあり、統一ダオメー党（le Parti Dahom&eacute;en de l&#39;Unit&eacute;）は全国民を結束させることはできなかった。独立によって生まれたさまざまな困難は、労働者たちの不満を生むことになった。また学生らがストライキや抗議活動を起こし、1963年10月、独立後初のクーデターが発生した。政権は翌年まで、クリストフ・ソグロ（Christophe Soglo）将軍に戻された。</p>
<p>
	新たな政治体制、は1964年1月に公表された。スル・ミガン・アピティ（Sourou Migan Apithy）が大統領になり、ジュスタン・アオマデベ・トメタン(Justin Ahomad&eacute;gb&eacute; Tometin）が、副大統領、首相になった。彼らは一緒に、ダホメー民主党（Le Parti Democratique Dahomeen; P.D.D.）を創設した。しかし約2年後、2人はこれ以上理解しあうことはなかった。これ以後は、元首は一人にしなければならなかった。ソグロ将軍はクーデターを起こして反対する者を追い払い、1965年12月に権力を掌握した。</p>
<p>
	しかし、経済面での課題は無くなることはなかった。国外に追放された多くのダオメー人は戻ってきた。生活は困難を極め、政府は労働者の給与を減らした。その間、人々は現状を改善するため、経済発展計画をあてにした。フランスや他の国々は、様々な分野でダオメー人を援助するため、資金や公務員を送った。</p>
]]>
<![CDATA[<p>
	ソグロ将軍の内閣は、実際にはダオメーの人々に支持されなかった。彼は、労働者が不満に思う事を決定し、経済的な問題を増大させた。また、モーリス・クアンデテ（Maurice Kuand&eacute;t&eacute;）総司令官率いる軍の青年幹部は、新たなクーデターを1967年12月17日に起こした。アルフォンス・アリー（Alphonse Alley）代理陸軍大佐は、国家元首となった。新たな大統領を任命するため、急遽選挙が行われた。バジル・アジュ（Basile Adjou）氏が勝利したにもかかわらず除名され、軍が任命したエミル・デルラン・ザンス（Emile Derlin Zinsou）氏が、1968年7月17日に国家元首に任命された。ザンス氏は、ダオメー国民に組織的労働を促した。ザンス氏の政党、「ダオメー復活連合（Union pour le Renouveau du Dahomey）」は、限られた支持しか得られなかった。公務員や学生のストライキ、金融措置の悪化、陰謀の発覚などが、国内に大きな不安を生み出した。</p>
<p>
	1969年12月10日、クーデターでザンス内閣は退陣し、モーリス・クアンデテが将軍となった。かつての指導者であったマガ、アオマテベ、アピティ元大統領は、戻ってくるように促された。3人は、県ごとに国民の意見を求めた。この頃は、市民蜂起の恐れや、ダオメー北部と南部とが分離する危険性もあった。</p>
<p>
	1970年5月7日から、大統領議会に集まったマガ、アオマデベ、アピティは、国の舵取りを担う者として任命された。これ以後、2年毎に交代で国を運営する三頭政治のような状態になった。マガ氏は、新政権の最初の内閣を形成した。</p>
<p>
	マガ内閣の2年間は、教師や学生の圧力のもと、ポール・ダルボー（Paul Darboux）を議長とする国民評議会議（Assemblee National Consultative）が開かれた。この会議は、内閣に提案を行うものであった。また、ある軍のグループが、ポール・エミル・ド・スザ将軍の暗殺を企てていた一方で、1972年5月7日に、アオマデベは政府の国家元首として就任した。しかし、アオマデベは国内の治安を回復させることができず、政治体制に対する不満が募り、新たなクーデターを招くことになった。</p>
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ・ベナンの歴史（10）植民地から独立へ</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/history/000728.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2010:/ife/columns/africanews//45.728</id>
<published>2010-02-05T12:21:35Z</published>
<updated>2010-02-05T16:30:47Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="History" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<h3>
	植民地時代の行政</h3>
<p>
	ダオメー植民地は、旧アボメー王国と、フランスに占領された北部地方の領土と合わせて、1894年につくられた。1904年、ダオメー植民地は、他の7 つの植民地と共に、フランス領西アフリカ（Afrique Occidental Fran&ccedil;aise; AOF）に併合された。AOFの総督府は、現在のセネガルのダカールに置かれた。また、ダオメー植民地政府はポルトノボに置かれた。</p>
<p>
	ダオメーは南部に11区、北部に4区の合計15の行政区に分けられた。これら15の行政区は、150もの郡に分けられ、さらに郡は村に分けられた。村の数は3600であった。行政区の首長は、フランスの総督府が指名した者が担当し、郡の首長は、複数の村から選出された人が職についた。</p>
<p>
	このような新たな制度が設けられたが、ベナン南部では、伝統的な首長制度が残るケースもあった。アボメー、およびポルトノボでは、郡の首長は、旧王族の中から選出された。一方で、ベナン北部は、長年フランスが進出せず、「真のダオメーはアボメーまで」、との認識もあった。この認識は、鉄道がパラクーまで延びても変わることはなかった。南北ダオメーは互いにほとんど知り合うことなく、政治的、経済的な結びつきも薄かった。また、北部では、ニッキやパラクーなどの一部の強大な権力を持った首長を除いて、首長自身の村の外に権力を及ばせることは無かった。次第に南北の人やモノの動きが大きくなり、経済的に接近はしてきたものの、北部の人は「遅れた」地域ということで、南部の人から軽蔑されるようになった。南部から北部に赴任する人たちの中には、未開の見知らぬ土地に「追放された」と思う人もいた。</p>
<p>
	植民地期において、近代医療と教育が始められた。アフリカ人とヨーロッパ人の医者、看護師らが医療サービスを提供し、天然痘、マラリア、結核などの重い病気を低減した。子供達は以前よりも死亡することが少なくなり、ダオメーの人口は増加した。また、初等教育も始まったが、公務員、および植民地政府の役人を育てるため、キリスト教の伝道師らが始めたものだった。</p>
]]>
<![CDATA[<h3>
	ポルトノボ事件</h3>
<p>
	1921年から翌年にかけて、植民地政府は人頭税の増税を行ったほか、都市部の近代建築に対する新たな税も導入された。これに不満を感じたポルトノボの市民らは、1923年2月、異議を唱え、大規模な抗議活動を行なった。労働者のストライキが起こり、さらにコトヌー港の作業員らもストライキを始め、市場を閉鎖し、ヨーロッパ人の食料が不足する事態となった。しかし、このような抗議活動の中、代表者でもあるルイ・アンカンラン（Louis Hunkanrin）、オニ･ベロ（Oni Bello）、エマニュエル・テット（Emmanuel T&eacute;te）らは、植民地政府に対して不服従の対応をとるよう促した。こういった植民地政府に対する反乱がポルトノボの郊外、およびコトヌーでも広がったことから、ダカールの総督から軍の派遣の命令が下り、周辺のフランスの植民地から軍人や哨戒艇が派遣された。軍の派遣により、抗議活動が止まった。税制は元に戻され、ポルトノボ市民には罰金刑が課された。代表者のルイ・アンカンランは、モーリタニアに10年間国外追放されることになった。</p>
<h3>
	独立への動き</h3>
<p>
	1946年以降、植民地総督の影響力が小さくなり始め、ダオメーは国家としての方向へ性質を次第に帯びてくるようになった。これは、ド・ゴール将軍が 1944年に開いたブラザビル会議において、民主的な自由をフランスの植民地に授与することを勧告したことによるものである。1945年、ダオメーは、フランスの立憲議会の代表者として、2名の議員を選出した。ポルトノボ出身のスル・ミガン・アピティ（M. Sourou Migan Apithy）と、ペール・オーピエ（P&egrave;re Aupiais）氏である。しかし、オーピエ氏は2ヵ月後に死亡した。後任にまずベルト（P&egrave;re Bertho）氏が、そして後にナティティング出身のウベル・マガ（Hubert Maga）氏が着任した。アピティは、ダオメー共和党（le Parti R&eacute;publican du Dahomey; P.R.D.）を結成した。マガもまた、ダオメー民主団（le Regroupement D&eacute;mocratique Dahom&eacute;en; R.D.D.）を結成した。そして、アボメー出身のジュスタン・アオマデベ(Justin Ahomad&eacute;gb&eacute;)は、ダオメー民主連合（l&#39;Union D&eacute;mocratique Dahom&eacute;enne; U.D.D.）を結成した。3人とも、ダオメーを動かし、国民生活を改善するため、権力を得ようとしていた。</p>
<p>
	大臣選出の際、アピティが副大統領に指名された。アピティおよびアボメー国民は、アフリカ諸国の集まりであるフランス共同体の一部になることを受け入れた。そして、経済と社会の発展のため、フランスの経済支援を受け入れることにした。</p>
<p>
	1958年12月4日、ダオメーは共和国になり、マガが国家元首（首相）となった。ベナンは、フランスに独立を求めるための協定会議において、コートジボワール、オートボルタ（現ブルキナファソ）、ニジェールと意見が一致した。そして、1960年8月1日に、ベナンの独立が宣言された。人々はポルトノボの政府官邸に駆けつけ、喜びと歓喜にあふれ、祝福した。国は6つの県で構成され。さらに、国民を代表する多くの議員が選出された。</p>
<p>
	マガは初代大統領になり、アピティは副大統領になった。この2人はダオメー国民を統合し、統一ダオメー党（le Parti Dahom&eacute;en de l&#39;Unit&eacute;; P.D.U.）を結成した。</p>
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>週刊東洋経済　アフリカの特集を掲載</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/news/000727.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2010:/ife/columns/africanews//45.727</id>
<published>2010-01-10T16:24:35Z</published>
<updated>2010-02-05T16:25:51Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="News" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	週刊東洋経済（東洋経済新報社）2010年1月9日号では、「徹底解明！地球上最後の新興市場　アフリカの衝撃」と、アフリカに焦点を当てた特集が組まれた。今年は、17のアフリカ諸国が独立した1960年のアフリカの年からちょうど半世紀にあたるほか、6月にはワールドカップ南アフリカ大会が開催される。そのアフリカの経済、および関連情報を、図表や写真をたくさん盛り込み、経済の知識がそれほどなくとも、アフリカ経済の動向をつかむことができる構成になっている。今では無視できなくなった中国の存在、南アフリカの現地事情、日本企業の取り組みなど、今日のアフリカでは、どのような経済動向なのかをつかむことができるだろう。</p>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>在ベナン日本大使館開設</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/news/000726.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2010:/ife/columns/africanews//45.726</id>
<published>2010-01-10T16:14:59Z</published>
<updated>2010-03-09T13:09:35Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="News" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	2010年1月1日、在ベナン日本大使館が初めて開設された。これまで、在コートジボワールの日本大使館が兼轄していたが、今後ベナンにおける諸業務が容易になることが期待される。</p>
<p>
	しかし、IC旅券作成機未設置の大使館であるため、紛失時の再発行など、パスポートの作成に時間が長くかかるという。また、査証（ビザ）関連業務については、今のところ十分な体制が整っておらず、外交・公用目的、在留資格認定証明書の提示があった申請、人道的案件等緊急を要するものに限定して発給される。もうしばらくは在コートジボワール大使館で業務を行なってもらう体制が続く。</p>
<p>
	これまで在コートジボワール日本大使館は、ベナン以外にもブルキナファソ、ニジェールとトーゴも兼轄していた。ブルキナファソ大使館はすでに新設されたが、トーゴ、ニジェールは引き続き在コートジボワール日本大使館が兼轄することになる。トーゴとニジェールに関しては、地理的にも交通的にも、引き続き不便な状態が続きそうである。</p>
<p>
	なお、ベナン以外にも、パラオ、エストニア、キルギス、ルワンダの各大使館が2010年1月に開設される。</p>
<h3>
	在ベナン日本大使館 Ambassade du Japon au B&eacute;nin</h3>
<blockquote>
	<p>
		Villa A2, Complexe CEN-SAD, Laico-Benin,　Boulevard de la Marina, Cotonou, B&eacute;nin<br />
		Tel:（＋229）21-30-59-86<br />
		Fax:（＋229）21-30-59-94</p>
	<p>
		○開館時間 &mdash; 08:30～13:00、15:00～18:15<br />
		○領事業務窓口開館時間 &mdash; 09:30～13:00、15:00～17:30</p>
</blockquote>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ・ベナンの歴史（9）フランスに対するベナン人の抵抗</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/history/000725.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.725</id>
<published>2009-12-10T16:02:24Z</published>
<updated>2010-02-05T16:07:07Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="History" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<h3>
	ベナン南部での抵抗</h3>
<p>
	1889年、グレレ王の死後、王子のコンド（Kondo）は王になり、ベハンゼン（Behanzin）という名前を名乗った。ベハンゼンはどうもうなサメに例えられ、国民から偉大な王ともみなされた。またベハンゼンは、白人を受け入れたくなかったため、フランスの大使、ジャン・バヨル（Jean Bayol）が要求したことを拒否した。</p>
<p>
	バヨルが戦争する準備をしているとベハンゼンが聞いたとき、彼は大臣らと軍人らを集めて王室会議を開き、占い師のゲデベ（Gu&egrave;d&egrave;gb&eacute;）を通じ、死んだ王たちに意見を聞くことにした。死んだ王たちは、フランスとの戦争をやめよと答えた。しかし、一部の人たちは、白人は臆病で、強い日光や蚊への抵抗力が無い人たちであると、ベハンゼンが戦争をするようにそそのかした。こうして、ベハンゼンは戦争を始めた。</p>
<p>
	バヨルはアボメー王国との戦争の準備を始めたが、フランス政府はバヨルに対し、平和にしておくよう勧告した。バヨルは、ベンハンゼンの首長2人を捕まえ、フランスが占領していたコトヌーにアボメー軍を来させるようにした。アホメー軍は、コトヌー近郊のゾグボ（Zogbo）でフランス軍を攻撃した。しかし、フランス側は厳重に護衛していたため、両軍との間で激しい戦いが行われた。アボメー軍が多くの兵力を失い引き下がったが、その後アボメー軍は、ポルトノボのアチュパ（Atchoukpa）を再度攻撃した。フォン人の兵士らは、ポルトノボ王国の王・トファ1世を護衛していた、テリロン（Terrillon）将軍の軍勢に攻撃をくわえた。</p>
<p>
	その後、ベハンゼンはアボメーに戻り、フランスに対し、毎年2万フランの支払いでコトヌーでの商業を行う権利を与えることに合意した。しかし、フランス人がウィダにとどまることを拒否した。これについてフランス政府は満足せず、再び戦争を始める準備をした。また、フランス人はアボメー王国について調査を行い、兵を上陸させるための埠頭を建設した。</p>
]]>
<![CDATA[<p>
	1892年、ベハンゼンの兵は奴隷を捕まえるために、ワチ人の国、グランポポ地方のほか、近隣のウェメの村々にも侵入した。これに不安を覚えたポルトノボの王は、フランスに通報した。行政官のヴィクトール・バロ（Victor Ballot）は、ベハンゼンに手紙を書き、彼に宣戦を布告した。アボメー王国は2回目のフランスとの戦争に突入した。</p>
<p>
	陸軍大佐のドッズ（Dodds）が率いるフランス軍は、3000人の兵力があり、皆戦いに慣れていた。また、フランス軍は、ベハンゼンの能力と軍の組織力を熟知していた。一方、ベハンゼンの兄弟であるガウ・グチリ（Gahou Goutchili）が率いるアボメー軍は、12000人の兵力を持っていた。</p>
<p>
	ドッバ（Dogba）、ポキッサ（Kpokissa）、アパ（Akpa）、カナ（Kana）で、激しい戦いが行なわれた。両陣営で、多くの死者が出た。アマゾンらが活躍したものの、戦況は非常に深刻な状況であった。フランス人はカナを占領し、アボメーに向けて進軍した。ベハンゼンは、先祖らが眠る神聖な王宮をフランス人の手に落としたくはなかった。そのため、ベハンゼンは、王宮の宝物をよそに移させ、アボメーの王宮を焼き払った。ベハンゼンは戦いを続けるために、藪の多いアチェリベ（Atch&eacute;rigb&eacute;）に避難した。</p>
<p>
	ドッズ将軍はアボメーに入り、フランスの国旗を掲げた。ドッズはベハンゼンから王位を奪い、アボメー王国をフランスの支配下に置いた。フランス軍はベハンゼンを捕まえるために兵の数を増やしたが、捕まえることはできなかった。そのため、ベハンゼンの大臣や親を捕まえ、人質にとった。疲弊したアボメーの国民がこれ以上苦しまないよう、ベハンゼンは自らフランス軍のいるイェゴ（Y&egrave;go）に向かった。フランスのドッズ将軍は、ベハンゼンをと彼の妻、そして息子のウァニロ（Ouanilo）を軍艦に乗せ、カリブ諸島のマルティニークに追いやった。その後、アルジェに連れて行かれた。以後、ベハンゼンは一度もアボメーに戻ることなく、1906年にブリダで死亡した。</p>
<p>
	ベハンゼンの兄弟のグチリ（Goutchili）はアゴリアボ（Agoli-Agbo）という名前で王になった。アボメー王国最後の王となった。王位はわずか6年で奪われた。以後、ダオメーはフランスの植民地となり、フランスから支配されることになった。バロは植民地の統治者として任命された。</p>
<h3>
	ベナン北部での抵抗</h3>
<p>
	行政官のヴィクトール・バロは、ベナン北部の占領を行なった。バロは、バリバ人の首長らに使者を派遣した。使者のデコウー（Decoeur）は、パラク、ジュグー（Djougou）、ニッキ（Nikki）の王と、デヴィーユ（Deville）は、カンディ（Kandi）とクアンデ（Kouand&eacute;）の王と、友好条約を結んだ。より強くなるために、フランス人がバリバ人を手助けするだろうと、バリバ人は信じていた。だが、新たに入って来たのはフランスの兵士らだった。バリバ人の首長らは、パラクを除いて、フランス人を追い出すために武装した。だが、多くの人が殺害された。また、 1884年のアフリカ会議で、フランス、イギリス、ドイツが国境線を画定し、現在のベナンの国境を決めた。</p>
<p>
	やがてベナン北部の人々は、道路や建物の建設、そして兵役をフランス人から強いられるようになった。1915年、バリバ人の首長であるビオ・ゲラ（Bio Gu&eacute;ra）は、フランスに抵抗したものの、増兵したフランス軍によって殺害された。</p>
<p>
	クワンデ地方出身のカバ（Kaba）も、フランスに抵抗した。彼はアタコラのソンバ人に対し、フランス人の劣悪な待遇に抗議するよう奨励した。しかし、カバは裏切られ、カバもまた殺害された。</p>
<p>
	<img alt="地図" class="imgnone" height="660" src="/ife/columns/africanews/assets_c/2010/02/9_map-thumb-510x660-255.gif" width="510" /></p>
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>ケニア国立博物館に無償資金協力</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/news/000724.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.724</id>
<published>2009-12-05T15:59:49Z</published>
<updated>2010-03-09T13:11:23Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="News" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	11月23日、在ケニア岡田誠司臨時大使とケニアのウフル・ケニヤッタ副首相権財務大臣との間で、「ケニア国立博物館古人類学遺物保存及び視聴覚機材整備計画」に関する交換公文の署名式が行なわれた。この計画は、日本のケニアに対する一般無償資金協力（※）の1つで、6,160万円を限度額とするものである。</p>
<p>
	ケニア国立博物館は、植民地入植者や自然学者らが、標本の保管、および維持する場所が必要だったことから、1910年に設立された。現在は研究と学問の普及の場であり、ケニアの自然・文化遺産の共有、保護、伝達を行なう役割を担っている。ナイロビをはじめ、全国に18の施設が存在する。</p>
<p>
	今回の計画は、ケニア国立博物館において、化石保存・研究活動の促進や、教育活動の推進に必要な教育番組作成などの機材整備を行なうものである。また、ケニア国立博物館と日本の研究者との学術交流などの促進が期待されている。</p>
<p>
	<strong>※一般無償資金協力</strong><br />
	途上国の政府機関に対して、文化・高等教育振興を目的とした機材供与、施設整備（建設・修復）等の購入に係る資金の贈与を行なうもの。昭和50年度（1975年）から行なわれており、平成18年度までで、128カ国、1324件、総額約570億円の資金協力が行われた。そのうち、アフリカは174件で、総額約68.5億円の資金協力が行なわれた（全体の12%）。</p>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ・ベナンの歴史（8）18世紀後半から19世紀のアボメー王国</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/history/000723.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.723</id>
<published>2009-11-07T15:55:53Z</published>
<updated>2010-02-05T15:58:01Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="History" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<h3>
	アゴングロ王（1789-1797）とアダンドザン王（1797-1818）の時代</h3>
<p>
	アゴングロ（Agonglo）はピングラ王の後継者であった。アゴングロ王は、国民を大いに喜ばせる改革を行なった。ウィダの商業を圧迫していた税金を免除したほか、囚人らの処遇を改善した。軍事面で、アゴングロ王は、多くの女性兵士を配置した。また、アボメーの南方のワチ人に対して戦争をした。</p>
<p>
	アダンドザン（Adandozan）王は、国民を虐待し、奴隷として母親を売るなど、残酷なことをした王であった。アダンドザンは王国の法律をやぶり、またマヒ人やヨルバ人との戦いにも敗れた。大臣らや軍人ら、フランシスコ・ドゥ・スザは王位を狙っていた弟のガッペ（Gakp&eacute;）を支援した。時の首相は、王のみが履くサンダルをアダンドザンから剥奪し、ガッペがそのサンダルを履いた。以後、アダンドザンは死ぬまで、禁固刑に処せられた。</p>
]]>
<![CDATA[<h3>
	ゲゾ王（1818-1858）の時代</h3>
<p>
	アダンドザンを王位から降ろしたとき、ガッペが王になり、名前をゲゾ（Gu&eacute;zo）とした。このとき、弱冠23歳だった。顔色は明るく、身長は高く、とても強い王であった。</p>
<p>
	王として君臨していた40年間、ゲゾは徴兵された兵士や女性部隊のアマゾン（※1）を再編成した。彼はマヒ人とヨルバ人との戦争で勝利し、これまでアボメー王国にとって重荷であった、オヨ王国に支払う重税を廃止した。その後、サベ王国を攻撃して街を焼き払ったほか、コムラン王が支配するトーゴのアタパメも攻撃し、コムラン王は囚人にされた。</p>
<p>
	1851年、ゲゾは現在のナイジェリアにあるアベオクタの戦いで大敗した。ヨルバ人の街であったアベオクタは、しっかりした城壁で守られており、ゲゾはここを攻略することができなかった。この戦いで、アボメー軍12,000人のうち3,000人以上の兵力を失った。</p>
<p>
	ゲゾは、王国を豊かにし、かつ飢餓を起こさないよう、体系的に経済を発展させた。ゲゾは、パーム油のプランテーションや、マニオク、とうもろこし、バナナの木、落花生の栽培を奨励した。また、ゲゾはフランスと友好条約を結び、アボメー王国とフランスとの商業取引を増大させた。さらに、ゲゾは国民の不平不満を聞き、時に公正な裁判をも行なった。</p>
<p>
	1858年、軍のキャンプにおいて、ゲゾはヨルバ人に襲われ、数日後に死亡した。全国民が、王の死に涙し、40年に及ぶゲゾの統治時代が終わった。ゲゾは、歴代アボメー王の中で最も強い王の一人だと言われている。</p>
<p>
	（※1）日本の書籍の中には、アマゾネスと表記するものもある。</p>
<h3>
	グレレ王（1858-1889）の時代</h3>
<p>
	ゲゾの息子のグレレ（Gl&eacute; l&eacute;）王は、大きくしっかりした体つきをしていた。ヨルバ人に殺された父の仇を討ち、また奴隷を捕まえるために、アボメー王国の敵に対して数々の戦争を行なった。</p>
<p>
	グレレが率いるアボメー軍は、難攻不落の城壁があるアベオクタで大敗した。しかし、アボメー軍はゲゾが殺された場所であるケトゥを占領し、焼き払った。</p>
<p>
	グレレは、威圧しようとするイギリスに抵抗し、フランスに対してコトヌーに入ることを認めた。フランスはコトヌーに軍隊を置き、そして商業全体をコントロールしたかった。フランスの大使、ジャン・バヨル（Jean Bayol）は、コトヌーに関する保証を得るためにアボメーに行った。しかし、グレレ王は重病にかかり、代理である王子のコンドはバヨルを快く受け入れず、バヨルが要求したことを拒否した。数日後、グレレは亡くなった。</p>
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>ベナンの来年度予算　見積額で1.27兆CFAフラン</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/news/000722.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.722</id>
<published>2009-11-03T15:50:21Z</published>
<updated>2010-03-09T13:13:51Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="News" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	日本でも2010年度予算の審議が報じられているが、ベナンでも2010年度予算について議会で話し合われている。2009年10月20日木曜日、議会に2010年度予算案が出された。この案によると、2010年度予算の見積額はおよそ1.27兆CFAフラン（約2700億円）となり、2009年度予算より2.3％増えた額となった。</p>
<p>
	ヤイ大統領は、議会において大きな国家の方針と選択肢を述べたのだが、すぐにでもわかるほど方針と現状が一致していない点を、ベナン国民は認めている。また、予算計画では、現実の経済危機とIMFの勧告が考慮されていない。そのため、立法側と行政側との間のさらなる対立が予測される。こういったことから、財務大臣の計画を尊重しない国会議員らにより政府は罠にかけられたようである、との見方もある。2009年度予算作成時のときも、ヤイ大統領の願いは国の現実を考慮していなかったと言われており、2010年度予算に関する議論がしばらく続くと思われる。</p>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ・ベナンの歴史（7）17世紀後半から18世紀のアボメー王国</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/history/000721.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.721</id>
<published>2009-10-11T14:47:01Z</published>
<updated>2010-02-05T15:49:26Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="History" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<h3>
	アカバ王（1685-1708）の時代</h3>
<p>
	ウェバジャに敵意を持っていたダンという人物がいた。ダンを排除するために、ウェバジャは息子のウェッス（Houessou）をダンのもとに行かせ、ダンから半ば強制的に何度も土地を奪った。ダンは耐えかね、土地を奪いに来るウェッスを殺害しようとしたが、失敗した。ウェッスは怒ってダンを殺害し、建物を支えるための石をダンの墓の上においた。この建物は、「ダンのお腹の中という意味」の「ダノメ（Dan Hom&egrave;）」となった。ダノメは、後にダオメーという言葉にかわった。</p>
<p>
	ウェバジャは死ぬ前に、後継者に息子のウェッスを指名した。1685年、ウェッスが王位に上り詰めたのだが、このときすでに50歳になっていた。ウェッスは自分自身を、ゆっくりと、かつ確実に獲物を狙うカメレオンに例え、アカバ（Akaba）と名乗った。また、刺繍が施された父のサンダルを受け継いだ。</p>
<p>
	アカバは、ウェメ川の東岸に住んでいたウェメ人と戦争をした。戦争の末期に、アカバは天然痘にかかってしまい、1708年に、10歳の息子、アボ・ササ王子を残して死亡した。アカバの死後、アボメー軍は勝利し、王国はそれ以後ウェメ地域まで広がった。</p>
]]>
<![CDATA[<h3>
	アガジャ王（1708-1732）の時代</h3>
<p>
	1708年にアカバ王が死亡したとき、王子のアボ・ササ（Agbo Sasa）はまだ10歳で幼かったため、王国の統治は相続人であったおじのドッス（Dossou）が引き継いだ。ある日、若いアボ・ササ王子が王位を自分に譲ってくれないため、ドッスのもとに行き王位を要求した。ドッスの答えは、王位を返さない、ということだった。</p>
<p>
	アボ・ササは失望した。しかも、アボ・ササ支持する者がいなかったので、アボ･ササはアボメーを出ることにした。ドッスはこれを機に、問題無く自分が王として君臨することができるようになった。ドッスはアガジャ（Agadja）という名前に変えた。このとき、彼は20歳前後だったのだが、以後王国を拡大するため数々の戦を行なった。</p>
<p>
	アガジャは、勇敢な騎馬民族で数も多いオヨ王国（現在のナイジェリアの一部）の軍事力を打ち破ることができずにいた。アガジャの軍隊が虐殺されるのを防ぐため、彼は軍隊を西部へ逃がした。アガジャの軍隊は虐殺されずにすんだのだが、アボメーの王はオヨの王に、41人の青年男女、銃41 丁、火薬の樽41個、雄牛41頭、ヤギ41頭などの品々を、1712年以降毎年献上することになった。事実上、アボメー王国は、オヨ王国に従属することになった。この取り決めは100年以上もの間続いた。</p>
<p>
	アガジャは1724年にアラダ王国を占領した。3年後、大西洋岸に位置するウフォン（Houffon）王のサヴィ王国に向かった。アガジャは策を練り、娘のナグェゼをウフォンと結婚させた。ナグェゼは、父のアガジャにウフォンの軍事力について報告したほか、サヴィ王国の大砲用の火薬を湿らせた。アガジャ軍はサヴィの街に侵攻し、ウフォン王の軍隊に攻撃した。ウフォン王の軍隊は反撃できず、ウフォン本人は殺され、サヴィ王国はアボメー王国に占領された。この戦いの際、アガジャは「アマゾネス（amazones）」とよばれる女性部隊を戦わせて、戦いでの勝利をもたらした。</p>
<p>
	アガジャ王は王国を海岸部へ広げようとしていた。これは、2つの背景がある。１つは、サヴィ王国など大西洋岸の王国が、アボメー王国などの内陸国から捕虜を買っており、足りない場合は内陸の人間を拉致して奪っていくことがあった。アガジャ王はこれに反対し、アフリカ人の輸出を止めることを希望していた。もう１つは、西欧の品物を購入する際、直接ヨーロッパ人と取引をしたほうが、海岸の王国を経由して買うよりも安くつくためである。オヨ王国に毎年多くの品物を献上しなければならなかったので、アボメー王国が損をしないための戦略だったとされている。また、オヨ王国は絶えずアボメー王国に圧力をかけており、これに対抗するために多くの西欧の武器が必要であった。そういったことから、海岸部へ国土を広げようとしたのだ。</p>
<p>
	こういったことから、アボメーの王は奴隷を売りながら、ウィダでフランス、ポルトガル、イギリスから持ち込まれたヨーロッパの品物、特に鉄砲や弾薬を買った。アガジャは1732年まで王に君臨し、1740年に亡くなった。</p>
<h3>
	テベス王（1732-1774）とピングラ王（1774-1789）の時代</h3>
<p>
	テベス王は、40年間権力をにぎっていたにもかかわらず、特に注目すべきことは何も果たさなかった。テベスは、自分に対して陰謀を行なうものを排除した。テベスはザ（Z&acirc;）の住人に対する戦いでは勝利を収めたが、マヒ人、ヨルバ人とポルトノボの王らに対する戦いには大敗した。テベスは王子のグニャンスヌに取って代わられた。</p>
<p>
	テベスの死後、息子のグニャンスヌは1774年に王となり、ピングラ（Kpingla）という名前をつけた。ピングラは、特にウェダのポポ人に対して戦争を行ない、アバムの首をはねた。　ピングラはエペの街と、奴隷貿易でウィダの競合相手でもあったバダガリー（現在のナイジェリア西部）を破壊し、銅製の大砲2台を獲得した。</p>
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>経済危機の中の投資：ナイジェリア、ケニアに教育支援</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/news/000720.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.720</id>
<published>2009-09-26T14:37:17Z</published>
<updated>2010-03-09T13:15:10Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="News" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	9月17日、国連貿易開発会議の2009年の報告書が発表された。世界同時不況により、2008年の投資額は、2007年より17％、約1兆5千億米ドル（約135兆円）分低下した。2010年の直接投資は緩やかな回復傾向が見られる。</p>
<p>
	こういう状況ではあるが、日本は投資額を増加させたまれな国のひとつである。</p>
<p>
	9月中旬には、JICA（国際協力機構）はナイジェリアの基礎・高等教育委員会と協定を結び、ナイジェリアの6つの州で490教室を建設することが計画されている。</p>
<p>
	また9月23日に、日本はケニアに対し数十億円のローンを行なうことを決めた。これは貧困削減のためのナイロビへの行政が含まれており、初等教育の就学率を上昇させる方針の1つになっている。</p>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>ワールドカップ南アフリカ大会予選：ベナン出場逃す</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/sports/000719.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.719</id>
<published>2009-09-26T14:25:44Z</published>
<updated>2010-03-09T13:16:27Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="Sports" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	9月6日にワールドカップ南アフリカ大会予選が行なわれた。グループ4のベナンはマリと対戦し、1-1の引き分けに終わった。同日、グループ4内1位のガーナがスーダンと対戦し、2-0でスーダンを下した。これにより、ガーナはグループ内1位が確定し、ワールドカップの出場が決まった。ベナンは今回もワールドカップの出場の機会を逃した。</p>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>米国国務長官　アフリカ7カ国歴訪</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/news/000718.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.718</id>
<published>2009-09-19T14:24:05Z</published>
<updated>2010-03-09T13:17:35Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="News" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	クリントン米国国務長官は、8月4日から11日間の日程で、アフリカのケニア、南アフリカ共和国、アンゴラ、コンゴ民主協和国、ナイジェリア、リベリア、カーボベルデの7カ国を訪問した。</p>
<p>
	5日にはケニアを訪問し、キバキ大統領とオディンガ首相の両氏と会談した。2007年末の大統領選挙でケニア国内が混乱していたが、今年4月に、大統領選を巡って対立していたキバキ大統領とオディンガ氏が連立政権を組み、国内の情勢は以前よりかなり回復している。ヒラリー国務長官は両氏に対し、より協調していくことを促した。また、いわゆるイスラム過激派が勢力を増すソマリアの隣国ケニアは、アメリカにとって重要な同盟国であり、今も不安要素が残る国内の政情を安定化するようを求めた。</p>
<p>
	6日はケニアの首都ナイロビで、隣国ソマリアの暫定政府のアハメド大統領と会談した。会談後の記者会見において、アメリカがイスラム系テロ組織・アルカイダとの関係が指摘されているソマリアの武装勢力の掃討に向けて、暫定政府の支援を拡大する旨を明らかにした。</p>
<p>
	9日は、一昨年に石油輸出国機構（OPEC）の加盟国に承認された、南部アフリカのアンゴラを訪問した。原油輸入の先を中東諸国に依存しないようにするためと、中国の急速なアフリカ進出に対抗するため、資源獲得を視野に入れた二国間関係の強化を図るものと見られている。これはアンゴラに限らず、石油産出国のナイジェリアや、希少金属などで有名なコンゴ民主共和国に対しても同様である。クリントン国務長官は、600万米ドルのアンゴラの農業支援に関する投資に、アメリカの王手石油会社シェブロンと署名した。また、再生可能エネルギーに関する協力関係の強化の約束や、温室効果ガス削減に関わる技術協力について議論を行なった。</p>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ・ベナンの歴史（6）アラダ王国と初期のアボメー王国</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/history/000717.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.717</id>
<published>2009-09-03T13:43:05Z</published>
<updated>2010-02-06T02:31:02Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="History" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	17～18世紀頃、ベナン南部にはアラダ王国、アボメー王国、ポルトノボ王国、サビ王国といった王国があり、これらの王国を築いた人たちは、トーゴ南東部の街、タド（Tado）からやってきた。</p>
<h3>
	アラダ王国</h3>
<p>
	アラダは王国の首都で、実に多くの人が住んでいたが、住民らは十分な食料を手にしていなかった。また、ある人達は魚が豊富なアヘメ湖周辺に住み始めた。</p>
<p>
	タドの王の娘であるアリボノンの伝説では、アリボノンが仲間と川に水をくみに行った際にヒョウが現れ、王女一人だけが逃げることができなかった。数ヵ月後、王女はヒョウとの間に息子のアガス（Agassou）をもうけた。アガスは大きく、強い男だった。今度は彼が、多くの力強い、勇気のある子供を複数人もうけた。子供たちは、王に昇進したがっていたが、何人かは排除されてしまった。そのうちの一人のアジャウト（Adjahouto）は、両親と逃げてアラダにたどり着き、王国を築いた。</p>
<p>
	アジャウトには4人の男の子がいたが、けんかで分かれた。メイヂ（Meidji）はアラダの王となった。彼の兄のゾゼリベ（Zoz&eacute;rigb&eacute;）はポルトノボ方面に進んだ。ド・アクリン（Do-Aklin）は、ガニィェ・エス（Gany&eacute; Hessou）とダコ（Dako）の2人の子供を連れて、カナンとボイコンの地方に行った。ダコは後に、人々からダコ・ドヌ（Dako-Donou）と言われれた。</p>
<p>
	アジャウトによって創設されたアラダ王国は、17世紀～18世紀初頭は輝かしい時代であった。海岸の潟に位置する港を通じて、アラダの王は、ヨーロッパ人と貿易を行い、火薬、繊維、アルコールなどを手に入れた。アラダの王は、それらを奴隷と引き換えにアボメーの王たちに転売した。ヨーロッパ人たちは奴隷を買い、アメリカ大陸のプランテーションで、高値で売った。アメリカ大陸では、奴隷達は死ぬまで重労働を強いられた。</p>
<p>
	17世紀、アラダの王は、商業関係の制定やカトリック宣教師司祭の派遣を頼むため、スペインのマドリードに大使2名を送った。その後、ポルトガル人やフランス人もアラダを訪れた。フランスからは、ルイ14世によって使者が派遣され、アラダの王に豪華な馬車を送った。アラダの王もまた、盛大なプレゼントをしたルイ14世に大使を送った。</p>
<p>
	1724年、アラダの繁栄をねたんでいたアボメー王国のアガジャ王は、アラダを攻撃した。サヴィ王国のウッフォン（Houffon）は隣のアラダ王を助けることを拒んだ。アラダ王は捕まえられ、殺された。アボメー軍の兵は、アラダ軍8000人を捕虜にした。これ以後、アラダ王国はアボメー王国の一部となった。</p>
]]>
<![CDATA[<h3>
	サヴィのウェダ王国</h3>
<p>
	およそ450年前、アオオ（Ahoho）によって導かれたアジャの国から来たアジャ人たちは、アヘメ湖の近くに来た。アオオ（Ahoho）はサエ（Sah&eacute;）の街を設立した。サエは大きくなり、後にサヴィとなった。首長のアオオは、海の近くの場所にグレウェ（Gl&eacute;hou&eacute;）という家を置いた。グレウェとは、ヨーロッパ人が、ウェダと呼んでいた村のことである。ウェダという言葉のなまった発音が変化して、ウィダになった。</p>
<p>
	2代目のパセ（Kpass&egrave;）王の時代、ポルトガル人が王国にやってきた。このとき、王国の人は初めて白人の姿を見た。ポルトガル人達は王に導かれ、王は彼らに食料とヤギを与え、ポルトガル人は王に織物や鏡を献上した。</p>
<p>
	その後、フランス人、イギリス人、そしてポルトガル人が、ウィダに頑丈な要塞を建設した。ヨーロッパ人たちは、アメリカ大陸に売るための奴隷を買った。奴隷と引き換えに彼らが払ったのは、お金ではなく、サヴィの王がアボメー王に転売する商品や武器（銃など）だった。商業によって、ウェダ王国は豊かになった。</p>
<p>
	サヴィの最後の王は、若くして王位についたウフォン（Houffon）である。大臣らからあまり指導されず、善良な統治を行わなかった。ウフォンがアボメー王のアガジャと会ったとき、ウフォンは王国の栄華を自慢した。アガジャは策を講じ、1727年にサヴィ王国を征服、占領した。ウフォンは殺された。ウェダ側は反乱したが全て失敗に終わった。捕虜は虐殺されたか、奴隷として売られた。</p>
<h3>
	ポルトノボ王国</h3>
<p>
	アラダ王の息子の一人、ゾゼリベは、アラダ王国から東方に移動した。ゾゼリベの息子、テ・アバンリン（T&eacute;-Agbanlin）は、1684年、ナゴ人が生活している地域にたどり着いた。彼はこの地で、元の統治者を追い出し、ポルトガル人がポルトノボ（新しい港）とよんでいるオボヌ王国を創った。彼は、アラダ王国のイメージで国を創った。ポルトノボ王国の初代の王になった。彼は王国を大きくし、アラダ王国のイメージで国を組織した。</p>
<p>
	ポルトノボ王国は、フランスが侵略するまでおよそ200年間続いた。その間、19人の王が即位した。テ･アバンリンの後は息子たちが後継者となり、次に孫やひ孫らが後継者となった。</p>
<h3>
	初期のアボメー王国</h3>
<p>
	アラダ王の孫のダコ・ドヌは、兄のガニィェ・エスを引き下がらせた。また、ダコ・ドヌは近隣の村と戦い、かつての首長たちを抑え、支配した。ダコ・ドヌは死ぬ前、後継ぎとなる子供がいなかったため、まだウェバジャと呼ばれていたいとこの息子であるアオ（Aho）を後任者とし、アボメー王国を創った。ガニィェ・エスの息子のウェバジャ（Hou&eacute;gbadja）は、ゲデヴィ人の住む地域に「アボメー」といわれる家を建て、家の周りを分厚い壁と溝で囲んだ。</p>
<p>
	ウェバジャは非常に賢かったので、国をよく統治できるよう、首長らに重要な助言をし始めた。やがてウェバジャは、昔からいた首長らや住民らに認められ、文化を発達させ、法を制定し、大臣らを任命し、王国を拡大するまで権力を掌握した。一部の首長らの中には不満を持つ者もいたが、反対することはできなかった。</p>
<p>
	ウェバジャは毎年、先祖らの名誉を称える盛大な祭りをひらいた。祭りの最中、兵士らが演習を行ったり、王が裁判を開いたり、国民に贈り物を贈ったりして、豊かさと権力を誇示した。</p>
<p>
	アボメーと言われるウェバジャの家は、多くの壁で囲まれた真の王宮となり、アボメーは王国の都になった。</p>
<p>
	<img alt="年表" class="imgcenter" height="608" src="/ife/columns/africanews/img/1727.png" width="489" /></p>
<p>
	※この表は、ベナンの歴史（6）に出てくる国名の変遷をわかりやすくしたものであり、実際には他にも王国があります。</p>
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>記事紹介：ベナン共和国文部省が記者会見</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/news/000716.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.716</id>
<published>2009-08-20T13:35:53Z</published>
<updated>2010-03-09T13:19:42Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="News" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<p>
	ベナン共和国文部省の記者会見の記事でIFEの活動に触れられました。</p>
<p>
	ここではその記事の日本語訳を紹介します。</p>
]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>シリーズ・ベナンの歴史（5）ヨルバ人の王国</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/history/000715.html" />
<id>tag:zom.canarygraphics.co.jp,2009:/ife/columns/africanews//45.715</id>
<published>2009-08-02T13:13:49Z</published>
<updated>2010-02-06T02:30:09Z</updated>
<author>
<name>アフリカニュース</name>

</author>
<category term="History" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />

<content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.zomahoun.com/ife/columns/africanews/">
<![CDATA[<h3>
	サベ王国</h3>
<p>
	サベ王国は、ナイジェリアから来たヨルバ人によって建設された。</p>
<p>
	サルベという人物に指揮されたヨルバ人らは、最初はニッキの近くに移動した。だが、バリバ人に攻撃され、さらに南方に移動した。彼はサベ王のオラジャドゥンを手助けし、敵を追い返した。サベの王は満足し、オラ・オベに王位を与えた。そしてオラ・オベは、サベの丘の上の人々と住むことになった。</p>
<p>
	オラ・オベが王位についていた頃は、王国を拡大していた。王国に暮らす人は、岩の丘の上に住んでいたため、十分に防衛されていた。また、バリバ人やアボメー人などの敵に対する防衛もできるほか、丘の上から石を転がすこともできた。ただし、農作業で平地に出ていた農民が、アボメーの兵士に捕らえられることはあった。</p>
<p>
	エコチョニ王の時代、アボメー王国のゲゾ王によって攻撃されていたマヒ人を助けるため、サベに兵士を送ったが、ゲゾ王に処刑された。その後、ゲゾ王がサベ王国を奇襲し、エコチョニ王の首をはねた。サベ王国の国民は、処刑されたか捕まえられた。</p>
<p>
	フランスによるアボメー王国の占領後、サベの王はフランスに従属することになった。</p>
]]>
<![CDATA[<h3>
	ケトゥ王国</h3>
<p>
	15世紀末頃までの間に、ナイジェリアのヨルバ人が現在のベナンのケトゥに向かって移動し、アロの村に住み始めた。しばらくして食料が不足し、アラルモン王子が、狩りの間に休憩する場所である「イロコ」に人々を引き連れた。そしてイロコのそばに王宮を建設し、粘土の壁で王宮を取りかこんだ。ただ、十分な土地は無く、フォン人らの土地をとった。そのようにして、権力のある王国の首都であるケトゥができた。歴代で48人の王が君臨した。</p>
<p>
	サ王は、ケトゥ王国の中でも有名な王で、街の周りを、堀と魔法の門を備え付けた長い城壁で取り囲んだ。その城壁は、高さ3メートル、長さ3キロに及んだ。</p>
<p>
	アンデ王は、時に貧しい木こりに変装し、市民に混ざり、人々の会話を聞くことがあった。王の悪口を言う者がいれば、翌日、王宮の警察がその人を逮捕、投獄する。</p>
<p>
	長年平和が続いていたのだが、アボメー王国とケトゥ王国との間で戦争が起こった。しかし、両者とも和解した。</p>
<p>
	アボメー王のゲゾ王は、友好関係にあったアデベデ王が統治するケトゥの人々に温かく迎え入れられた。だが、ゲゾ王は、ケトゥの隣村のエポでひどい怪我をした。ゲゾ王の護衛は攻撃した者に反撃した。ケトゥの住人は誤って、アデベデ王が裏切り行為をしたと非難し、王に対して反乱した。そういった不名誉なことから救うことができなかったので、アデベデ王は自害した。しかし、父ゲゾ王の復讐をするために、ゲゾ王の息子のグレレは激しく抵抗するケトゥを攻撃した。その間、住民は殺され、王国は焼かれてしまった。</p>
]]>
</content>
</entry>

</feed>